編集長ブログ

愛してやまない、ドラマ『密会』Vol.3/伝説のピアニスト、リヒテルのこと(2)

ドラマ『密会』では、20世紀最高のピアニストの一人と称されるロシアのリヒテル(スヴャトスラフ・リヒテル/1915-1997)の爪痕がところどころに見られる。もちろんリヒテルだけではない。さりげなく名前が挙がる著名なピアニストや演奏曲にも、しっかりと伏線が張られていた。ドラマを見終わってからそのことを知り、最小限のセリフの奥に隠されたマニアックな仕掛けに感嘆のため息が漏れてしまった。

リヒテルは、力強くダイナミックな情感と緻密にコントロールされた技巧を併せもつ稀有な演奏家だという。リヒテルをモデルにしたとされる、天才ピアニストのイ・ソンジェ(ユ・アイン)も、そういう演奏スタイルに近い。ユ・アインのピアノ演奏の代役を務めたピアニストのソン・ユンミンは、自分の演奏スタイルを捨て、ソンジェとしての演奏スタイルに徹したという。この「影武者」の話もとても面白いので、また別の機会に書きたい。

ドラマ密会公式サイト

http://c7mikkai.jp/#top

Sviatoslav Richter plays Chopin Scherzo no. 2, op. 31 – video 1953

リヒテルは状態の悪いピアノも当たり前のように弾きこなしていた

リヒテルの演奏活動は型にはまらないものだった。彼は小さめの規模の会場で、演奏曲目を予告もせずに行うリサイタルを好んだ。海外の演奏会が終わるとトラックにピアノを積んで、ふらっと田舎町に立ち寄り無料演奏会をしながら大好きな旅行をした。

リヒテルは調律の合わない劣悪なピアノでも見事な演奏をしたという数々の伝説を残している。当時のロシアの地方都市では、状態の悪いピアノで演奏をすることは珍しいことではなかった。なので調律の良くないピアノで演奏することに慣れていたようだ。

私は、リヒテルの演奏が聴きたくてネットで探し、とんでもないものをYouTubeで見つけた。2015年3月に放送されたNHK-FMの特集番組「繊細な巨人リヒテル~鉄のカーテンの中の伝説のピアニスト~ 」 だ。そこで弾かれていたムソルグスキーの「組曲“展覧会の絵”」は、1958年にブルガリアのソフィアでのライブで、まさに調律の良くないピアノでの演奏だった。リヒテルは叩きつけるような鬼気迫るピアノを弾いていた。この演奏に番組のコメンテーターのピアニストは、常識を超えたリヒテルの凄みに恐れをなしていた。

NHK-FMの特集番組「繊細な巨人リヒテル~鉄のカーテンの中の伝説のピアニスト~ 」

もちろん、リヒテルは無謀な弾き方をしていたのではない。1959年にはドイツのワルシャワでレコーディングを行ったが、この時のピアノもひどい状態で、スタッッフは当然リヒテルに拒否されるものと思っていた。しかしリヒテルはピアノの前に座るとキーの感触を確かめながらムラなく聴こえるように何度も練習し、何事もなかったかのように素晴らしい演奏をして帰って行ったという。状態の悪い楽器でも魂を込めて演奏ができるのだ。

どんな安物の楽器でも自分を表現できるのよ

大学に自分たちの将来を見出せなくなった器楽科の学生たちが、ソンジェと一緒に五重奏のサヨナラ演奏会を開いた。

このことはドラマ『密会』のなかで、ソンジェ(ユ・アイン)が通っている音楽大学の、器楽科教授のメールの言葉で表現されていた。この教授は首席で卒業したが、楽器は一番安物だった。その楽器で大会に出たり留学のテストも受けていた。

『密会』では、器楽科に通う女子学生が、担当教授から「チェロが安物だから上手くならない」と、パワハラを受けていた。お金もバックボーンもない学生を差別するような大学の体質に嫌気のさした学生たちが退学をする決意をし、ソンジェ(ユ・アイン)と一緒に五重奏で最後の自主演奏会をするシーンがある。器楽科教授からのメールは、その“落ちこぼれ”の学生たちに宛てたものだった。

後輩たちへ
楽器は音を出してあげて初めて楽器になるのよ。人も同じ。
私も昔は高価な楽器に憧れていた。だけど気持ちを乗せられなければ、ただのモノなの。
同じようにどんな安物でも、自分を表現できる。
今の自分が持っているものを精一杯愛してあげて。

ソンジェのピアノは見かけは安物だが中身は一流だった

演奏会の練習のあとで、みんなで行ったパブで学生たちはソンジェ(ユ・アイン)に「リヒテルも安物で弾いたの?」「ソンジェのピアノは?」と質問する。彼は嬉しそうに頷きながら、自分のピアノは「韓一(ハヌル)だけど、中身は違う」と答える。

ソンジェのピアノはロフトのようなところにある。ピアノの左側には卵のパッケージをたくさん防音用に貼り付けてある。
ソンジェの弾いているピアノは「韓一(ハヌル)HANIL」というメーカーらしい。
中が最高級品に生まれ変わったソンジェのピアノ。

ソンジェ(ユ・アイン)の弾いていたピアノは、前に住んでいた住人が置いていったもので、彼は、食堂の仕事で忙しい母の帰りを待ちながら、おもちゃ代わりに独学でこのピアノを弾いて大きくなった。ピアノがどこ製のものか気になっていたが、ここで初めて「韓一(ハヌル)HANIL」という名が出てきた。韓国にそういうピアノメーカーがあるのだろうか・・・探して唯一出てきたのは「韓一精密」という会社だった。現在ピアノを作っている形跡は見当たらないが、YAMAHAと提携していたらしい(しかしこれはピアノではない)。昔は日本でもナショナル(現パナソニック)がピアノを作っていたことがあるので、もしかしたら作っていたのかもしれないが、定かではない。いずれにしても有名なメーカーではないだろう。しかし、このピアノがソンジェ(ユ・アイン)のピアノ教師であるヘウォン(キム・ヒエ)夫婦の好意で、鍵盤、弦、ハンマーやダンパーなどが最高級品に入れ替わる。新品を買ったほうが数倍も安いくらいの金額だった。ソンジェ(ユ・アイン)のピアノは「外側は安物だが、中身は超一流」なのだ。

リヒテルはYAMAHAを愛用していた

ヘウォンの自宅のピアノもYANAHA。初めて2人で連弾したシーン。
大学のグランドピアノもYAMAHA。大学で開催されたソンジェの単独演奏会のシーン。

『密会』では、ヘウォン(キム・ヒエ)の自宅にあるピアノや、大学や演奏会で使用されるピアノは日本のYAMAHAが使用されている。世界でも評価の高いピアノメーカーであり、このドラマのスポンサーであるからとしか思っていなかった。しかしここにも「リヒテル」がいたのだ。リヒテルは1969年からYAMAHAのピアノを愛用するようになったという。「柔軟で感受性が鋭く、特にピアニシモが非常に美しい。私の表現したい心の感度を歌ってくれる」と語っていたことを知った。ドラマのシーンやセリフは全てがつながっているのだ。
次回は、『密会』で名前が挙がるピアニストや演奏曲について語りたい。