編集長ブログ

ドラマ『LOST 人間失格』を語るVol.3/深い人間愛を感じる温かな群像劇

抑制されたエロティシズム

『LOST 人間失格』(2021)は、とても静かな日常物語だ。財閥もとびきりの美男美女も登場せず、サスペンスやどんでん返しもない。どこにもいるような人や、一見幸せそうな人が、大なり小なりの心の闇を抱えていて、決して平凡ではないのだ(もしかしたら、人生とはそういうものかもしれない)。訳ありカップル、仮面夫婦、不倫、ホストクラブ、恋人代行、DV、自殺・・・など、人生の“陰”を歩んでいるような登場人物が多い。しかし、どろどろした愛憎シーン、ベッドシーンは皆無に近く、ラブシーンですら、ハラハラドキドキでもどかしく古典的だ。俳優たちの抑制の効いた際どい表現がたまらなくエロティックなのだ。これがドラマが上質で純粋なラブストーリーと感じさせる所以だろう。ここではガンジェ(リュ・ジュンヨル)とブジョン(チョン・ドヨン)以外の登場人物について書きたい。

小さなテントを貸してもらい夜を明かすことになった。この緊迫感がたまらない名シーンとなった。
ベッドシーンではなく、疲れた体を横たえているだけだが、ブジョンの背中のボタンが締め忘れで1つだけ外れている。これが実にエロい・・・

父はこの世にひとつしかない“詩集”です

ドラマが、深いメッセージを放つ上で重要な人物となっているのが、ブジョン(チョン・ドヨン)の父親だ。現在は段ボール回収で小遣いを稼いでいる。男手ひとつでブジョン(チョン・ドヨン)を育て、娘の幸せを誰よりも願っている。世間から蔑まれても段ボール回収をやめないのは「健康のため」と嘯いているが、本当は娘に金銭的迷惑をかけたくないからだ。娘を100% 受け入れる言葉しか言わず、ブジョン(チョン・ドヨン)もことあるごとに父親の元に逃げ込み、本音を吐き出せる深い絆がある。この父親の言葉や行動が胸を打つ。

「お前は大丈夫なのか?元気ならいい。元気なら生きていけるから」
「若いことは特別な理由がなく本当に孤独だ。誰も口にしないだけで、老いることよりももっと辛い」

ブジョンは、辛い気持ちを父親に吐き出す。父親はどんな時でも受け止めてくれる。

「父の心の中には、法も哲学も文学も全てあります。どこかで習ったこともないのに少しずつ積み重なって、父はこの世にひとつしかない“詩集”です。父は心の中でいろんなことを考えています。長い間考えたことの中から、選びに選んで言葉にします」

ブジョン(チョン・ドヨン)の言葉からは、父親を理解し心から尊敬していることが伝わってくる。少し癖のある登場人物が多い中で、ブジョンの父親はオアシスのような存在でもある。ブジョンの夫も、ガンジェ(リュ・ジュンヨル)もこの父親を慕っており、ブジョン(チョン・ドヨン)と犬猿の仲だった義母ですら、好感を持っていた。ホームレスに間違えられたことのある父親ではあるが、地位とかお金では計れない、人間としての魅力や価値を伝えてくれる。父親を演じているのは、ドラマ『ナビエラ』(2021)の主役を務めた名優パク・イナンだ。

ブジョンの夫と元カノとの関係

どこにでも起こりそうな「不倫のタネ」だが、泥沼化はしなかった。

ブジョン(チョン・ドヨン)の夫も、このドラマの重要な人物だ、演じているのは、数々の人気ドラマの名バイプレイヤーのパク・ビョンウン。最近では『ムービング』(2023)で、癖のある軍人を演じているが、彼でなければ醸し出せない独特の雰囲気を持った魅力的な俳優だ。夫婦の会話が噛み合わず、すぐ余計なことをいう夫、すぐ突っかかる妻に、見ている方もイライラする。しかし物語が進むにつれ、彼は嘘のつけない優しい人物で、“不器用”なだけだったこともわかってくる。ブジョンの父親を慕っており、ブジョンの父親も彼を信頼していた。夫は初恋の相手と同級会で会い、際どいところまでいくが、分別はわきまえていた。この初恋の相手がキム・ヒョジンだ。ユ・ジテの妻としても知られ、話題のドラマ『無人島のディーバ』(2023)では、落ちぶれたカリスマ歌手として、最高にはじけた演技をしている。ちょっと崩れた匂いを醸し出すのが実にうまい女優だ。

ブジョンの夫(パク・ビョンウン)と、初恋の相手(キム・ヒョジン)。なぜか二人がうまくいってほしいと思ってしまう・・・

この二人の関係も味わい深い。『LOST 人間失格』は、同級会で火がついて・・・という単なる不倫話にしないところがいい。初恋の彼女は、豊かな暮らしがしたくて金持ちの夫を選んだが、その夫が癌で長い闘病の末亡くなってしまう。財産もほとんど残されていない。そういう時期にブジョンの夫と同級会で出会い心が揺れた。しかし彼は理性が働いた。

「死んでいく人を長く見ていると、人は生きたいように生きるべきだと思うようになるの。クズと言われても。でもあなたと出会って、清く生きるべきだ・・・そう思った」

彼女の言葉がとても印象に残った。

ゆっくりと暗いトンネルを抜けて・・・

『LOST 人間失格』では、病死だったり、自殺であったり死の場面が実に多い。“死”を真剣に考えることで、人は新たに自分の“生”を考える。人生には限りがあり、自分はどう生きるべきか・・・自分の夢を閉ざされて自殺を考えていたブジョン(チョン・ドヨン)は父親の死後、「お父さん、やっと私はお父さんが私にこの世界で“何になるか”より、“何をするか”が大事だと、常に目で体で生き方で見せてくれたとほんの少しずつ、ゆっくりとわかり始めています」と独白する。たとえ夢を潰されたとしても「夢のない人生は死にも等しい」と気がつく。長く続かなくても休んでから歩き、歩いてからまた走ればいいと。

ガンジェは、いろんなことを断ち切ろうと髪を切った。「魔性の男」から「普通の青年」っぽくなったが、自分の気持ちに素直に生きようとする心の変化が表れている(リュ・ジュンヨル、うまい!)。

ガンジェ(リュ・ジュンヨル)は、お金も思うように貯まらず、何者にもなっていない自分に怯え、孤独を感じていた。しかし、自分よりも深い悲しみを背負っているブジョン(チョン・ドヨン)と出会い、生まれて初めて“愛”という感情に芽生えた。「俺はその人のために何ができるでしょうか。その人の何になれるでしょうか。もしかしたら何にもなれないかも・・・結局何にもなれないとしても、今の自分に“正直”なことが、俺にできるできる、愛かもしれません」と、彼もまた独白する。

ゆっくりと暗いトンネルを抜け、それぞれの新たな人生を再び歩み出す。そういうドラマだった。

強い印象を残したナ・ヒョヌ

まだまだ語りたい登場人物はいるが、最後に一人だけ、気になった俳優をあげたい。出演こそ少ないが、『LOST 人間失格』の鍵を握っているのが、ガンジェ(リュ・ジュンヨル)のホスト時代の先輩だ。彼は自殺サイトを運営しており、そこで知り合ったある女性と恋人関係になり、結果的にはその女性と心中する。恋人の息子は高額な治療費を必要とする難病で入院しており、彼は治療費を工面するために借金に奔走していたのだ。しかしその甲斐もなく、息子のように可愛がっていた子供は亡くなってしまい、その後に恋人と心中する。ガンジェ(リュ・ジュンヨル)は、先輩の遺品整理をしていた時に、そういう事実を知る。しかもブジョン(チョン・ドヨン)もその自殺サイトの登録者だったことを知り、衝撃を受ける。こういう深い闇の鎮魂歌のように使われていたのが、ジェフ・バックリィの『ハレルヤ』だ。

一瞬で心を掴まれた、ナ・ヒョヌの映像。悲しみと絶望が滲み出ている。

心中した先輩を演じていたのは、ナ・ヒョヌ。ミュージカルや舞台で活躍している俳優で、ドラマ出演はまだ少ないが、悲しみをたたえた憂ある表情がインパクトをあたえた。昨年予告編に登場した映像を見た時、「彼はいったい誰!?」と、その佇まいに衝撃を受けた。登場シーンが少ないのが残念だったが、これからがとても楽しみな俳優だ。

私は、リュ・ジュンヨルもチョン・ドヨンも、今まで見た映画やドラマの中で一番魅力を感じ、キャラクターも好きだ。『LOST 人間失格』は、主役だけではなく他の登場人物も人間愛を感じるヒューマンドラマに仕上がっている。視聴率は当初の期待より少なかったようだが、視聴率を上げるためのドラマとは一線を画す名作といいたい。多くの方に見ていただきたいドラマだ。

【Textile-Tree/成田典子】