編集長ブログ

早瀬にやって来た伊勢大神楽の話Vol.2

7月に、早瀬にやってきた「伊勢大神楽の話」の第2弾です。ぜひ第1弾からご覧ください。

なぜ伊勢大神楽は何百年も生き延びたのか

伊勢大神楽の受難の時代

伊勢大神楽は、伊勢神宮に参拝できなかった人たちの「代参(だいまいり/だいさん)」として、年に一度「お祓い」をする獅子神楽(獅子舞)で諸国を回ったのが始まりです。起源は約450~600年前ともいわれます。伊勢神宮を御参拝する「お伊勢参り」は、江戸時代に日本中で大ブームとなりました。その背景には、伊勢神宮の信仰を広める役割を担っていた「御師(おんし)」とよばれる人たちの活躍があります。しかし、明治になると新政府の神道国教化政策(神社を国家に帰属させる)により、寺社に所属していた「御師制度」は廃止されてしまいました。そのため伊勢大神楽と伊勢神宮の関係も途切れてしまい、祈祷(きとう)を行っていた多くの「御師」は廃業してしまいました。しかし神事芸能の役割を担っていた「神楽の太夫」は生き延びたのです。

渡辺家の玄関口で獅子舞やお祓いをしている伊勢大神楽。(写真提供:神野知恵さん)

伊勢大神楽は「家元(師匠)」と、同門の師弟で構成される組織「社中(しゃちゅう」で成り立っています。神職を世襲とする家元の家柄は「社家(しゃけ)」、創始者の社家は「宗家(そうけ)」と呼ばれます。神事芸能を行う社中の構成員は「太夫(たゆう)」と呼ばれます。

伊勢大神楽の本拠地がある三重県桑名市の「太夫村」には、最盛期は12の家元(社家)があり、諸国を回檀(かいだん:巡業のこと)していましたが、明治以降は減少の一途をたどり始めました。その背景には「御師制度」の廃止ばかりではなく、高度成長期以降に日本のライフスタイルが大きく変化し、村落共同体が崩壊し始めたことや、世襲制で継承してきた家元(社家)が後継者難に陥り、廃業に追い込まれたことも要因しました。かつて早瀬で親しまれていた「松井嘉太夫(まついかだゆう)」も、その廃業社中のひとつです。

獅子に頭を噛んでもらっている純造兄さん(写真提供:神野知恵さん)

宗教法人伊勢大神楽講社

1954年、長い伝統を持つ伊勢大神楽を絶やしてはいけないと、伊勢大神楽の発祥の地である三重県桑名市大字太夫に、伊勢大神楽の各家元が組織して「宗教法人伊勢大神楽講社」が結成されました。同年、三重県無形民俗文化財の指定を受け、1981年には国の重要無形民俗文化財の指定を受けました。現在は桑名に本拠を置く5社中と、桑名以外の1社中が伊勢大神楽講社に加盟し、相互扶助を行うようになりました。結成の背景には「伊勢大神楽」を名乗る同業種(いわゆる偽物大神楽)が全国に蔓延(はびこ)ったという事情もあったようです。

伊勢大神楽講社のことは、山本勘太夫社中のウエブサイトでご覧いただけます。
https://www.kandayuyamamoto.jp/rituals-and-amulets/association/

<伊勢大神楽講社 公式チャンネル>動画でご覧いただけます

https://www.youtube.com/channel/UCrwvf2XYVCEZdykEIFPiPJg/videos

競合せず地元密着に徹した経営戦略

伊勢大神楽は「伊勢神宮のお使い」として、伊勢神宮に参拝できなかった人たちのために、一軒一軒の玄関口で悪魔除けの獅子神楽(獅子舞)を舞い、無病息災、家内安全などのお祓いをし、神札(しんさつ:御札《おふだ》のこと)を授与します。現在は伊勢神宮の神札から「伊勢大神楽講社」の神札に変わっています。

伊勢大神楽が何百年も続いている背景には、非常に優れた「伝統的な経営戦略」がありました。各社中は元旦から12月中旬くらいのほぼ一年中諸国を回檀(かいだん:巡業のこと)します。各社中の回檀先は、年間を通して決められており、同じ地域を同じ時期に回檀するので、社中同士は競合しません。訪れる日程が決まると各町や村に事前に案内状を出してお知らせします。合理的でありながら極めて「地元密着」。お客様(信者様)をとても大切にしており、コミュニケーションも実に上手です。巡回するエリアは檀那場(だんなば)と呼ばれますが、昔は各国の大名、藩主、庄屋、名主などと強い関係を築き、スポンサーになってもらい、家々に神札を配り檀那場を広げていました。

山本勘太夫社中の大阪府堺市金岡神社での奉納

伊勢大神楽の活動圏は、西日本(三重・滋賀・和歌山・京都・大阪・福井・兵庫・岡山・鳥取・広島・山口・島根・香川)が中心です。かつては全国を回檀していましたが、徳川幕府が東国入国を禁じたことで西日本中心になったようです。福井県も古くからの檀那場で、伊勢大神楽の宗家でもある「山本源太夫」の社中が回檀しています。大晦日に桑名を出発した社中は、滋賀県で舞初めをし、滋賀県内を巡回し、5月頃に福井県に入ります。そして早瀬には7月頃に訪れます。

獅子舞と放下芸

伊勢大神楽は、お祓いを行う「獅子舞」と曲芸の「放下芸(ほうかげい)」で構成されます。一軒一軒の玄関口で獅子舞を行ったあとで、神社の境内などで「放下芸」を行います。「放下芸」こそが伊勢大神楽の醍醐味ともいえるメインイベントなのです。伊勢大神楽は「神事芸能」を行う「芸能のプロ集団」で、給料も支払われます。何世代にも渡って受け継がれ、はるか昔から親しまれてきた高いスキルの曲芸や道化芸で人々を楽しませます。伊勢大神楽が何百年も続いてきたのは、芸の魅力はもちろんですが、時代の困難を乗り越えながら「商売」としてしっかり成り立つ経営戦力があったことも大きかったようです。

伊勢大神楽は、各家々で「初穂料(はつほりょう)」という祈祷料をいただき、無病息災、家内安全などのお祓いをする獅子舞(獅子神楽)を行い、「神札(しんさつ)」を授与します。値段表があるわけではありませんが、昔から暗黙の了解で、初穂料の金額により獅子の頭数や神楽の演目、お祓いの内容が変わるようです。純造兄さんは、今回少しはずんだので、二頭の獅子が舞をおこなってくれました。

家の中では、かまど祓いなど大切な場所をお祓いしていただきます。(写真提供:神野知恵さん)
(写真提供:神野知恵さん)

「放下芸」は、神社や町の有力者などがスポンサーとなっていました。商店街や町の有志などが招くこともあります。純造兄さんによると、以前早瀬では各家々からお金を集めて「放下芸」をしていただいたそうですが、現在は行われていません。

「獅子舞や放下芸」の様子は山本勘太夫社中のウエブサイトでご覧いただけます。

滋賀県大津市建部大社での奉納の様子

神様も人も喜ばせる“笑い”

曲芸や舞にはたくさんの種類があり、全部演じると3時間以上にも及ぶようです。あや取り糸のように、2~3本のバイ(木棒)を自由自在に操る「綾採(あやとり)の曲」、皿や茶碗、傘などを使用する「皿の曲」「傘の曲」など、日常の暮らしにあるものを使って、絶妙なバランスを取った曲芸が中心です。剣を使った危険な曲芸もあります。獅子舞も数多くの種類があります。伊勢大神楽の最後を締めくくるのは「魁曲(らんぎょく)」。獅子が花魁に扮し、担ぎ手の肩に乗って花魁道中を行う、とても華やかな芸です。

山本勘太夫社中 建部大社「魁曲 」

放下師は芸のうまさをただ見せるのではなく、そこには「チャリ」とよばれる道化師がいて、曲芸を真似してみたり(しかし失敗ばかり)、面白可笑しく与太を飛ばして観客を笑わせます。この笑いと娯楽性がとても重要で神様も喜ばれることなのです。おかしなやりとりや、ユーモラスのある芸は子供に人気があるので、チャリの役割は重要です。子供に人気の芸は永遠です。独特の笛や太鼓のお囃子と共に、リヤカーを引いて回る大神楽の光景は、大人になっても忘れられないはずです。私もいつかお目にかかりたいものです。

伊勢大神楽は、基本的には家元の芸の継承という世襲制なので、後継者問題もまだまだ深刻です。芸を磨くことも大変な努力を要しますが、家族と離れ一年中旅して回るのもかなりの覚悟がいります。私は、早瀬に来た伊勢大神楽がきっかけで、その存在を知ることができ、動画を見てとても感動しました。この素晴らしい文化財をぜひとも長く継承していただくためにも、まずは多くの方に知っていただきたいと、このブログを書くことにしました。

民俗学や民族音楽の研究者、神野知恵さんのこと

今回、早瀬にやってきた伊勢大神楽には、伊勢大神楽の研究をしている、国立民族学博物館の神野知恵(かみのちえ)さんが同行していて、渡辺家の大神楽の写真は、神野さんからお借りしました。
神野さんのご専門は民俗学や民族音楽で、韓国の「農楽」や日本の「伊勢神楽」を研究されています。60年代に韓国の「女性農楽団」で活躍されていた羅 錦秋(ナ グムチュ)氏のことを書いた著書『韓国農楽と羅錦秋-女流名人の人生と近現代農楽史』(風響社)を拝読しましたが、体験と密着取材ならではの内容で、とても面白いご本でした。

映画『王の男』より


私は、コロナ禍がきっかけで韓流映画やドラマの面白さを知り、韓国の民族芸能や音楽にも魅せられました。映画『王の男』は、朝鮮王朝時代の大道芸人の話です。イ・ジュンギの美しさと大道芸の面白さに魅了されたと、神野さんに伝えたところ、「『王の男』に出てくる旅の芸能者「男寺堂(ナムサダン)」は、韓国の伊勢大神楽といっても過言ではありません。むしろ、私は日本にまだ生きたナムサダンがいる!と考えて伊勢大神楽の研究を始めました」とのお返事をいただきました。とても納得です。

神野さんは、パンソリのおすすめ映画なども教えてくださいました。私としては本当に心強い先生を得たようで、嬉しくてたまりません。次回はぜひ韓国の大道芸の話を書きたいと思っています。