弘子姉さんの布絵『早瀬の稲扱(いなこき)商人/宗吉・ヤス』が
横浜にやってきました!
・・・・『千歯こき〜こうして横浜にやってきた〜』のパンフレット(表)
行商の布絵がいい感じです!・・・・
現在、横浜市歴史博物館では
『千歯(せんば)こき〜こうして横浜にやってきた〜』が
開催されています。(3月24日まで)
「千歯扱き」とは、米や麦の脱穀の農具で、
櫛状に並んだ鉄や竹の歯の隙間に稲穂などを差し込み
穀粒を扱き取る道具です。
足踏み脱穀機が普及するまでの大正時代から昭和初期まで
全国各地で使われていました。
この展覧会は、横浜で使われた千歯扱きの
生まれ故郷を探るものです。
なかでも千歯扱きの生産地として一世を風靡した
倉吉(鳥取県)と若狭(福井県)に焦点が当てられました。
「千歯扱き」だけで展覧会をしてしまうという、
かなりマニアックな展覧会です!
・・・・パンフレット(裏)展覧会は3月24日まで開催されています。
古代〜近代までの歴史資料を展示した常設展もかなり見応えがあり、
勉強になります!・・・・
弘子姉さんの住んでいる若狭地方の美浜町早瀬は
漁師村でありながら、江戸時代の後期からは
千歯扱きの生産地として発展するなど、
漁業と商工業の港町として繁栄していました。
また、北前船(きたまえぶね)が寄港し
商家、造り酒屋、旅館、料亭が立ち並び
華やかな芸能や宗教行事が盛んな土地でもありました。
早瀬で作られた千歯扱きは、行商によって全国に販売されました。
明治期には早瀬の成人の5人に1人は
行商に携わっていたといいます。
弘子姉さんの布絵『早瀬の稲扱(いなこき)商人/宗吉・ヤス』の
モデルになった稲扱き商人は純造兄さん(弘子姉さんの旦那さん)の
母方のお祖父(宗吉)さんとお祖母さん(ヤス)です。
当時の稲扱き商人の装いを忠実にあらわした布絵が
横浜歴史博物館の学芸員の刈田さんの目に留まり、
今回の横浜行きとなりました。
・・・・『早瀬の稲扱(いなこき)商人/宗吉・ヤス』
38.5×54cm(平成3年/1991年制作)
行商には親子兄弟、夫婦や親戚などで組んで出かけたといいます・・・・
弘子姉さんは若狭の稲扱き商人を書いた
歴史家の林英夫先生の書物を参考にしました。
稲扱き商人は身の回りのものを詰めた籠やカバンと
当時としてはとても洒落ていた洋傘(こうもり傘)を
持って出かけました。
洋傘を持って歩く事が行商人のスタイルであったようです。
女性は膝までの絣の着物に手甲、脚絆をつけ
ワラジを履いたといいます。
・・・・作品の下布に使用している刺し子は、
ヤスさんが行商時にお弁当を包んでいたものです・・・・
・・・・革の小さなカバンに身の回りのものを入れて
出かけました。そのカバンがまだ残されていました・・・・
・・・・宗吉さんが行商に持ち歩いた小さな革のバッグ・・・・
・・・・カバンの上にあるのは千歯扱きの引き札(ちらし広告)・・・・
・・・・今回の展覧会『千歯扱き』の図録。素晴らしいです!・・・・
・・・・弘子姉さんの布絵の事や、純造兄さんが所有していた
稲扱きの修理道具も陳列されています(『千歯扱き』の図録より)・・・・
・・・・純造兄さんの父方のお祖父さん小林豊三郎も稲扱き商人。
行商の途中の越中富山で写したという「ガラス乾板」が残されていました。
“こうもり傘” を誇らしげに持っています(『千歯扱き』の図録より)・・・・
・・・・小林豊三郎の娘の小林正子の稲扱きの売り上げ帳。
父娘で稲扱きの行商をしていたようです・・・・
・・・・福井県立若狭歴史民俗資料館に展示されている千歯扱き・・・・
早瀬が千歯扱きで栄えた村であった事は
それとなく知ってはいましたが、その産業に関わっていた人が
いかに多かったかを知り驚きました。
村が豊かだったから、祭りや芸能、宗教行事なども盛んになり
神輿なども立派なものが作られたのでしょう。
現在はこれといった産業もなく、漁業市場もなくなり
人口も減少して、早瀬の行事を維持していくのも
難しい状況になっています。
しかし、かつて早瀬で商業を営んでいた寺川庄兵衛が、
早瀬に産業を興したいと、従来の稲扱きを改良した
鉄の千歯扱きを完成させ、それが一大生産地となり栄えたように
何がきっかけで、まちおこしとなるかは分かりません。
今回の稲扱きがクローズアップされたことが、
あきらめないでもう一度「頑張ろう」というきっかけに
なればいいなあと、願って止みません。