編集長ブログ

福井県の美方高校・開校3年目で甲子園出場の快挙!

2023年1月21日、あっという間に今日で6年目を迎えました。

19日に妹が贈ってくれたユリが、今日に合わせたように、見事な花を咲かせました。百合は私の大好きな花で、ブライダルブーケもユリでした。

先日、弘子姉さんがとても嬉しい体験したことを話してくれました。白内障の手術をして初めて病院で眼帯を外した日、何気なく待合室で手に取ったのが、美方(みかた)高校の後援会会報誌の『泉ン原(いずんばら)』でした。

なんとそこに、自分の弟のこと(私の夫でもありますが)が、書かれていたのです。この偶然に驚くやら嬉しいやらで、その会報誌をすぐに送ってくれました。

『泉ン原(いずんばら)』No.24

それは「野球部一期生を想う」というタイトルで書かれた、美方高校後援会理事長の斉藤勢津男さんの文章でした。短い文章ではありますが、昭和46(1971)開校3年目で甲子園出場を掴んだ、野球部の先輩たちへの愛が溢れていました。その部員の一人が私の夫です。斎藤さんは二期生だったようです。

美方高校
https://www.mikata-h.ed.jp

美方高校野球部
鮮やかなブルーのユニフォームは、当時は珍しかったようです。
https://www.mikata-h.ed.jp/activities/bb/

夫は、昭和44年(1969)福井県の美浜町に開校された美方高校の一期生で、野球部員でした。野球場も整備されていなく、グラウンドの石ころ拾いから始めたという野球部。しかも人数もギリギリで、陸上部員も借り出して試合に出たこともあったといいます。全員地元出身の田舎チームで、今の時代のような「野球留学」で集まった部員でもありません。「甲子園」という言葉を口に出すのも憚れる、夢の夢の状況なのに、当時の領家(りょうけ)監督は、「夢ではない。行ける」と、部員たちを励まし指導したそうです。1年目、2年目は、なかなか勝てなかったようですが、いい人材も集まり、3年目にチャンスがやってきました。

当時のメンバーのサインが書かれたボール

当時、甲子園出場は現在のように1県1校ではなく、石川県・福井県で1校。しかも石川県には、あの松井秀喜を輩出した、名門星稜高校が鎮座しています。福井県では、阪神の川藤幸三の母校・若狭高校が立ちはだかっています。しかし、「まさか」の奇跡の進撃が続きます。あれよあれよと間に福井代表となり、北陸大会では星稜高校を破り、甲子園の切符を手にしたのです、その様子が、斎藤さんの文章にイキイキと書かれていました。今の時代ならドラマにもなりそうなくらいの出来事です。

1971年の北陸大会で、準決勝を石川県「鶴来(つるぎ)高校」、決勝を石川県「星稜(せいりょう)高校」に勝ち甲子園出場を決めたスコアが載っている記事。
甲子園では、1回戦を北海道の北海高校に3対1で勝利。2回戦は、福島の郡山高校に0対6で敗戦。甲子園では、慣れない環境に体調を壊す部員も多かったようです。

甲子園出場を勝ち取り凱旋した日、美浜駅には「プラットフォームの底が抜けそうなくらい、人、人、人」町中がどんなに喜びで喚起したか目に見えるようです。

斎藤さんは、そういう野球部の先輩たちの名前を一人ずつ挙げ、敬意を表していました。その一人に夫の名前があり、弘子姉さんはそれを見て本当に感激しました。お兄さんも嬉しくなって斎藤さんにお電話したそうです。

第53回甲子園出場の記念で作った、選手のサイン入りの手拭い。夫の名前も・・・1枚だけ残っていたのを弘子姉さんからいただきました。輪にして縫ってあるので、何かに使ったのかもしれません。

残念ながら、美方高校は、あれから甲子園出場は果たしていませんが、こういう業績は後輩の大きな励みになるはずです。美方高校は、当時からボート部が活躍しており、同じ年に全校優勝という凄い業績を上げていますが、気の毒なことに「甲子園出場」の影に霞んでしまったようです。

私は甲子園球児の夫をリアルでは知りませんが、草野球チームで活躍していた夫の姿を見ています。守備もうまく、スローイングなどは惚れ惚れするくらいカッコよかったです。

今日は、野球を通じて夫を想い出す日となりました。こういう素敵な文章を書いていただいた斉藤勢津男さんに、心より感謝いたします。