テキスタイルへの愛が深まる本Vol.1 宮尾登美子『錦』

テキスタイルの知識が得られる小説やノンフィクションに出会うと、ワクワクします。ストーリーもさることながら、「よくぞここまでテキスタイルのことを調べてくださいました」と、著者に心から感謝いたします。本にはネットで検索するだけでは得られないドラマがあります。当時の時代や暮らしのなかで、どのようにしてテキスタイルが作られ、販売され、購入され、着られていたのかをドラマチックに伝えてくれます。テキスタイルへの愛が深まる本を何冊かご紹介します。

織物を芸術にした龍村平蔵
まず最初にご紹介したいのは、宮尾登美子の『錦』。明治から大正にかけての京都の西陣織の織物街を舞台に、「龍村の帯」で有名な初代龍村平蔵をモデルとして書かれたものです。宮尾登美子はこの小説を書くのに30年近くの準備期間を要しました。「龍村の帯」と言えば、着物好きの憧れの的。当時は「帯1本に家1軒」といわれたほどの高級織物です。龍村平蔵は次々に新しい織りを考案し、その帯は芥川龍之介も「芸術品」と絶賛。まさに「織物を芸術品にした男」なのです。だからこそ宮尾登美子は、容易には手が出せなかったといいます。そして伝記でも小説でもない龍村平蔵を書き上げました。

機織りの音で何を織っているのかがわかって一人前
物語は明治から大正にかけての西陣。西陣の町の中を歩くと、あちこちから機(はた)を織る音が聞こえてきます。織元や呉服店など織物業に携わる者は、機の音を聞いただけで、何を織っているかわかるようになったらようやく一人前。杼(ひ)と筬(おさ)の音を聞き分け、どういう組み合わせをしているかで、何を織っているのがわかるといいます。「おたく何を織っていますか」なんて聞いたらバカにされるのです。染色業に携わる者は、敷居をまたぎ工場の匂いを嗅いだだけで、何色を染めているかわかるといいます。全てにおいてプロフェッショナルが求められます。生きるために誰もが真剣な時代だったからでしょう。


⬆️纐纈織(こうけちおり)の丸帯。「纐纈」とは、「絞り染め」のことで、まるで振袖に見られる細かな鹿の子絞りのような文様が織られている。(『龍村平臓 「時」を織る。』より)

誰もやったことのない画期的な織物開発と、
誰にも真似のできない最高技術の発掘「古代裂の復元」に没頭
主人公の菱村吉蔵は、研究のためのコストをいとわず全てを投げ打って纐纈織(こうけちおり)、高浪織(たかなみおり)、推古織(すいこおり)など、美術織物といわれる高度で美しい独自の織物を次々に考案します。紋紙を用い、ジャカード機で織る複雑な文様は、柄を彫る紋紙代が非常に高額となります。しかし彼は精巧な美しさの追及のみに心血を注ぎ、効率や価格を求めることはしませんでした。ところが織物の評判が高まれば高まるほど安価なコピー品が出回ります。このことで心身を病み、さらには経営の危機に陥ったこともありました。
それでも怯むことはありませんでした。彼の心を掴んだのは、執念ともいえる法隆寺や正倉院に残る「古代裂(ぎれ)の復元」でした。「誰にも真似のできない確固たる織物技術を確立したい」と、狂気と紙一重の精神状況の中で、復元に没頭。復元により得られた技術の蓄積は、創作の大きな糧になり、「復元の第一人者」という新たな名声を得ることになったのです。


⬆️左下は、奈良帝室博物館(現奈良国立博物館)御物修理所での作業風景 大正4年(1915)頃(『正倉院の世界ー皇室がまもり伝えた美ー』より)


⬆️正倉院宝物の塵芥(じんかい)。塵(ちり)や芥(あくた:クズのこと)粉状化した繊維片も貴重な資料。全て分類され、正倉院宝物として大切に保管されている。(『正倉院の世界ー皇室がまもり伝えた美ー』より)

当時は今日のような最先端技術はありません。X線写真もないし、高度な化学的分析もできない時代です。法隆寺や正倉院は一般人が足を踏み入れることのできない神聖な領域。菱村吉蔵は、斎戒沐浴(さいかいもくよく)で身を清め、新調した正装で出かけます。初期の復元は肉眼で何度も見て、絵師がそれを模写していたといいますが、写真機や顕微鏡も手に入れるようになりました。ボロのような古裂を顕微鏡で見ては分析し、素材調達や染色技法など何度もやり直し、試行錯誤を繰り返し、私財を投げ打って研究に没頭します。そうして復元され、法隆寺を代表する錦となったのが「四天王獅猟文様錦(獅子狩文錦)」。そして正倉院の琵琶袋「縹地大唐花文錦(はなだじだいからはなもんにしき)」でした。まさにこれは龍村平蔵の話です。

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宮尾登美子『錦』(中央文庫)
2006年~2008年にかけて『中央公論』に連載され、2008年に中央公論社から出版されました。私が読んだのは2011年に中央文庫から出版された文庫本です。西陣を舞台にした物語には、織機や生地の専門用語などが多用されています。ぜひわからない用語は『テキスタイル用語辞典』で検索してください。より理解が深まり、物語を楽しめます。