編集長ブログ

渡辺弘子の布絵の世界Vol.6『三番叟(さんばそう)』

美浜町早瀬には「子供歌舞伎」の伝統があります。
毎年5月5日、日吉神社例大祭に
山車(やま、だし)の舞台で上演されるもので
日吉神社で奉納された後、
瑞林寺(ずいりんじ)の前や各地区を練り歩き
「寿式三番叟(ことぶきしきさんばそう)」が上演されます。

早瀬はかつて北前船(きたまえぶね)が寄港し、
千歯扱き(せんばこき)または千歯稲扱き(せんばいなこき)という
稲扱機(いなこきき)の生産地として栄え、
商家、造り酒屋、旅館、料亭が立ち並ぶ
漁業と商工業の港町として繁栄していました。
華やかな芸能や宗教行事が盛んで、お寺や神社も多く
子供歌舞伎の山車や祭りの神輿(みこし)なども
かなり立派なものが残されています。

三番叟
『三番叟(さんばそう)』:弘子姉さんの布絵の作品です。
早瀬観光センターに寄贈されています。

ちょうど早瀬に伺っていた4月30日は早瀬観光センターで
衣装を着けた子供歌舞伎の最終リハーサルが行われ、
運良く見物することができました。

早瀬の子供歌舞伎は
江戸時代、早瀬にコレラが流行し、これを鎮めるために
寺社に子供歌舞伎を奉納したのが始まりといわれています。
「疫病は神仏の祟りであるため、寺社に子供歌舞伎を奉納せよ」
とのお告げを受け、区内の寺社に子供歌舞伎を奉納したところ
コレラの流行が収まったと言い伝えられています。
子供歌舞伎は滋賀県長浜の子供歌舞伎をお手本にしたようです。


出番を待つ子供歌舞伎の役者さん。この日は2組がリハーサルを行いました。
本番は白塗りのお化粧がされると思います。


「寿式三番叟」は、もともと能の「翁」を歌舞伎化した義太夫です。
天下泰平・国土安穏・五穀豊穣・子孫繁栄などを祈願する舞を舞います。
「寿式三番叟」の舞台には雄大な老松が描かれていますが
これは神が影向(ようごう:神が降臨すること)する笠松とのこと。


翁の舞の後には翁(中の太夫)から
千歳鶴と千歳亀に鈴が渡され、三番叟の「鈴舞い」が行われます。
大地をしっかり踏みしめ、大地に潜む悪霊を払い、
稲穂に見立てた鈴を鳴らしながら
子孫繁栄、五穀豊穣を祈願する舞を舞います。
激しい舞いで、疲れてへとへとになっているのを励ましながら
舞うのがひとつの醍醐味のようですが、
今回はそれがあまり見られませんでした。
舞いも短くなっているようだと一緒に見た主人が言っていました。

昭和50年(1975年)までは、5月7日・8日・9日の3日間に渡り
行われていたようですが、男子の減少と資金不足から
昭和51年〜55年(1976〜1980年)間は中断。
昭和56年(1981年)に再開された際に5月5日に開催が変更されました。

子供歌舞伎の演目は、現在は「寿式三番叟」ひとつですが
かつては120余りの台本があったとのこと。
小学4〜5年生の男子が演じますが、
私の主人は6年生の時に「寿式三番叟」を演じ、
お兄さんは「白波五人男」を演じたそうです。
早瀬出身のほとんどの男子は経験しているかもしれませんが
子供の多かった時代は、出演が難しく、
舞いのレベルもかなり高かったかったようです。

子供歌舞伎< 地区内を山車で練り歩き上演される子供歌舞伎。 (写真は「福井の文化財」HPより)

実は子供歌舞伎が中断していた時期頃から
伴奏の三味線を引く後継者も途絶えつつありました。
三味線の弾き手は主人や弘子姉さんの伯父さん一人となり
伯父さんが亡くなった後は
三味線をテープレコーダーで流したり、
よその地区から弾き手をお借りして
どうにか開催していたようです。

しかし踊りと曲が合わなかったり、曲もニュアンスが微妙に違うため
これをなんとかしなければと
三味線を習っていた経験がある弘子姉さんは
親しくしている中島エミ子さんにリードされ奮起。
伯父さんが弾いていたテープレコーダーを聞きながら
見よう見まねで、二人で「寿式三番叟」の譜面を起こしました。
それを、町の若者を家に集めて三味線の講習会を開き伝授。
伝統のDNAをバトンタッチすることができたのです。
多分15年以上前の話しではないかと思います。
一度途絶えても、情熱があればまた復活させることも可能です。
諦めない気持ちを忘れないでいきたいものです。

現在の三味線の弾き手のみなさんは、お姉さんの孫弟子に当たる方達です。
5月5日の本番は揃いの着物で演奏されると思います。


早瀬の観光案内図。


子供歌舞伎のリハーサルが行われた早瀬観光センター(左の白い建物)は
久々子湖(くぐしこ)と若狭湾を結ぶ川沿いにあります。


早瀬観光センター前の八重桜が満開でした。