わたしの金足農業と追分

夢のような甲子園でした。
秋田が準優勝したという単純な喜びではなく、「“あの”金農が!!」という、まるで親心のような感覚です。
かつて私の父は金足農業の教師をしており、私たち家族は金農の教員住宅に住んでいました。二部屋の小さな一軒家で、廊下が子供部屋でした。お風呂はなくて銭湯に通っていましたが、途中で湯船が樽のようなお風呂場ができ、井戸から水道へと変わっていきました。テレビも買いました。まさに昭和の映画に出てくるような暮らしです。けど、教員住宅は雨漏りがするので、父はよく屋根に登って修理をしていたり、台風の時は、玄関の戸が風で飛ばされないように、釘で打ちつけたり、それでも危ない時は、母が暴風の中、戸を押さえつけていました。

金農の教員住宅は、住まいは小さくてボロいのですが、土地は広く、家の前にはきれいな花壇があり、畑も結構広く、スイカにウリやイチゴなどの果物や、トマトや大根、ナスなど野菜もたくさん作っていたり、鶏小屋もありました。時々お醤油が切れたといって隣の方がお醤油を借りに来たり、子供たちは当たり前のように隣の家でお昼やおやつを食べていったりしていました。母は近所のお母さんたちと一緒に「むじん」というのをやっていていました。毎月みんなでお金を出し合って、まとめてどなたか必要なかたがそのお金を使わせていただくという仕組みです。今でいう「女子会」のようにお母さんたちが時々集まり、お茶やお菓子持ち寄って楽しそうにおしゃべりしていましたが、それが「むじん」だったんですね。
ものもお金もない時代でしたが、まわりがみんなそうだし、土地はあったので、ほとんどの家が畑を作ったり、のびのびと暮らしていました。今思えば豊かな時代だったと思います。

父は金農で、園芸などを教えており、いつも作業着を来て温室にいました。私は温室にもよく遊びに行きました。近所の子供たちにとっても金農は遊び場で、校門のところは芝生のようになっていたとおもますが、そこでシロツメグサで花輪などを作って遊んでいました。教員は当直というのがあり、父が当直の時は妹と金農に行き、父が夜の学校を案内してくれました。用務員さんにも可愛がってもらいました。
学校には、花畑もたくさんあり、私が自分の通っている小学校に花を持っていきたいというと、父は抱えきれないほど花を切って新聞紙に包んでもたせてくれました。今の時代だったら、こんなことをしたら問題になるでしょうね。当時はおおらかな時代で本当に楽しかったです。
金農の実習では、温室で育てた花を車に積んで生徒と一緒に販売もしていて、そういう時に父は生徒にアイスクリームをご馳走していたようです。
当時の金農は、野球はそんなに強くなかったと思います。強かったのは、確か相撲とラグビーでした。いつも泥まみれになっている姿を思い出します。


⬆️追分から鷹ノ巣に向かう日。友達が追分の駅まで見送りに来てくれました。蒸気機関車です。

私は小学校まで金農のある追分に住んでいましたが、中学からは家族は鷹巣(たかのす)に引越ししました。祖父母が年を取ってきたこともあり、父が実家のある鷹巣農林高校に転勤希望を出したからです。その後追分に行くことはありませんでした。

時々甲子園に金農が出ると、懐かしい思いがしましたが、今回のように、追分時代の暮らしを懐かしく思い出したのは初めてです。私は母の実家で生まれましたが、妹は金農の用務員さんの家で(多分まだ住宅が決まっていなかったからだと思います)。弟はこの教員住宅で生まれました。やっと生まれた男の子で、父は本当に可愛がっていました。子供の頃の弟は本当に可愛くて、近所の人からも可愛がられていました。追分の時代は、私にとっても楽しい思い出がたくさん詰まっています。
その弟も今年の5月に逝ってしまいました。両親も弟も金農の活躍をどんなに喜んでいることでしょう。そしてもう一人、甲子園球児だった主人も。主人と一緒に金農の活躍を喜べなかったのが本当に残念です。野球のウンチクもたくさん聞きたかった。
私のように、金農や追分のことを人生の大切な1ページとして思い出した方もいるかもしれませんね。甲子園でなければ、きっとこんな気持ちにはならなかったと思います。
神様がくれた大きな奇跡ですね。ありがとう!